中田英寿の経歴と所属チームまとめ!なぜ嫌われ者で人気者だったの?

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日本サッカーのレジェンドといえば三浦カズですが、世界で最も有名になった日本人サッカー選手といえば中田英寿選手、通称ナカタヒデでしょう。

彼の他にもヨーロッパで活躍した・している日本人選手はいます。小野選手 高原選手 稲本選手 本田圭佑選手 香川選手 長友選手 長谷部選手 内田選手などなど。

 

しかし彼らとナカタヒデは全く違う次元です。今回は彼の経歴と、その特徴についてまとめます。


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経歴

中田英寿選手は1977年山梨県生まれ。小中と地元の公立学校へ通います。中学生の時には15歳以下日本代表に呼ばれています。しかし当時は飛び抜けた選手ではありませんでした。

高校は山梨県立韮崎高校へ進みます。全国大会にも出場しました。高校卒業後にベルマーレ入団。すぐに活躍しました。そして22歳でイタリアのチームへ移籍します。

彼が活躍した時代は、イタリアに実力のある選手が集まっていました。当時世界最高選手といわれていたフランスのジダン選手も、イタリアのユベントス所属でした。

2017年の今、世界最高の選手はクリロナ選手かメッシ選手といわれていますが、2人ともスペインリーグですよね。まあ当時もバルセロナとレアルマドリッドの対戦は特別でしたが、イタリアリーグのステイタスは当時スペインよりも上でした。

そのリーグで、とんでもない光を放ったのがナカタヒデです。2000年前後にサッカーが好きだった人たちは、世界中どこでもナカタヒデの顔と名前を知っています。そんな日本人選手は彼以外にいません。

そんなナカタヒデは他の選手と何が違ったのかというと以下の点です。


姿勢

まずその独特な姿です。少し重心を落とすと人間の姿勢は若干前にかがみます。しかし彼は重心を落としても胸を張ってまっすぐ立っていました。あれは何だったのでしょう。

やはり人並み外れた背筋と腹筋があったのでしょう。そして、アゴを出して周りを見下すように見ていました。


首振り

常に首を左右に振って、味方と敵のポジションを把握していました。数えた人によると1試合で800回振っていたとか聞きました。もちろんボールを持っていない時も振っていました。

彼以外にあんなに首を振っていた選手はバルセロナのシャビくらいでしょう。首は並みの人より若干長めに見えました。首を振るスピードは爬虫類のように一瞬でした。

高校時代の練習で、普通に鳥かごやっているときも、習慣にするために首振り練習をしながらやっていたそうです。


嫌われる勇気

インタビューされているときはいつも不機嫌そうな顔をしていました。そして今日の試合はどうでした?」と尋ねられたら、「どうって何についての質問ですか?」と切り返していたのを思い出します。

要するに「今日はドリブルよりもパスを選択していたようですが、何か意図があったのですか」とか、「相手の戦術はカウンター狙いだったと思いますが、引いた相手に今日のドリブルは有効だったのでしょうか」などと具体的に尋ねてほしいわけです。

インタビュアーは、そんな準備もせず、あるいはサッカーの知識もなくやってますから、テキトーに質問をするわけです。なのでヒデから「何について聞いているのか?」と言われても絶句するだけでした。テレビを見ている私は苦笑していました。

日本人的な、空気を読んでテキトーに合わせるという技能を、ユニフォームを着ている時に使うことはありませんでした。嫌われる勇気をもっていました。


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おしゃれ

ファッションセンスが抜群でした。それもこれまでの常識を覆すようなコーディネイトがばっちりきまっていたので、イタリアからの帰国ゲートはいつもカメラフラッシュの嵐で、翌日は彼のファッションがスポーツ誌の一面で話題になっていました。

1998年のフランスワールドカップでは、髪を赤く染めていました。常に人と違うことを考えている彼らしい色でした。そして予選リーグ3試合を戦い、そのプレーで世界を驚かせ、ヨーロッパからオファーが殺到したのです。


シュートが強い

距離のあるところから強烈なシュートを打っていました。バーに当たるとゴールが揺れるようなボールです。あれはボールの芯をとらえる才能と努力のたまものでしょう。

彼は子どものころから、一人で壁に向かってボールを蹴る練習をしていたそうです。その時に、足の5本の指それぞれに当てて、ボールにどんな回転がかかるか、どんなスピードで飛ぶか観察していたとのことです。

そんな彼ですから、ボールの芯をとらえて、回転を計算し、どんな軌道でどこへ飛ばすか完全にコントロールしていたのでしょう。

ローマ時代の試合で、この試合に負けたら優勝はなくなるという時、トッティと交代した後、突き刺したミドルシュートは忘れられません。


キラーパス

いまや死語ですが、彼独特の切れ味するどい彼のスルーパスがそう呼ばれていました。ほとんどは受ける選手があと一歩でトラップできないというボールでした。

そしてナカタヒデは、「取れよ!」ってジェスチャーをするのです。彼が蹴ろうとする直前に動き出さないと取れないボールです。そしてトラップできればビッグチャンスになるのです。


マネージメント

サッカー選手は自分で何事も契約する時代でした。しかし彼はサニーサイドアップというマネージメント会社に籍を置いて自分の契約を任せていました。それはサッカーについてもスポンサーについてもです。まるで芸能人のようなシステムの中にスポーツ選手を入れたのも革新的でした。

そして、イタリアのペルージャ、ローマ、パルマ、そしてイングランドプレミアリーグのボルトンとマネージメント会社を通じて移籍していきました。ローマからパルマへの移籍金は35億円だったといわれています。

今ほど移籍金が高騰していない時代です。それだけの実力があったのに加えて、マネージメント会社の実力もあったのです。


外国語

スポーツ選手は、頭脳は二の次という常識を覆したのも彼です。イタリアに渡って最初のインタビューにおいてイタリア語を話し、「おなかが減りました」と言ってイタリア人の笑いをとった彼は、その後間もなく、イタリア語がペラペラになりNHKのイタリア語講座番組にゲストで出たこともあります。

そしてパルマというチームでは10番を着けてキャプテンもしたのです。コミュニケーション能力の高さがわかります。日本人には備わっていないことの多い能力です。


引退後

よくある引退後のパターンは指導者のライセンスをとって、コーチになり、監督になるというものです。

彼は現役中に、公認会計士のライセンスを目指していました。その頃から、指導者という選択肢はなかったようです。そして引退後は旅人となり、世界の子どもに希望をあたえていきました。有名な「TAKE ACTION」 プロジェクトなどを成功させました。

今は、日本酒を世界に広げる会社を立ち上げたり、ゴルフ業界に足を入れたりしています。


まとめ

私は彼がベルマーレにいるときからずっと情報を追いかけています。独特の世界観を持ち、広い視野で世界を幸せにしようとしている彼の行動にすごく刺激を受けます。

いつか彼と対等に話ができるよう私も努力しようと思わせてくれます。


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  • 2017 01.31
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